その秘密を読み解く短い旅に、ぜひお付き合いいただきたい。
壁の文字、化学式
ガラス張りの外壁に近づいてみると、何やらアルファベットが書かれている。
わざと読みにくくすることで模様として機能させようとしているのだろう。文字は重なり、単語は途中で折り返されている。
文字を拾っていくと、「Noyori Material Science
Laboratory」と読める。建物の名称、「野依記念物質科学研究館」の英語名だ。
自らの名称をこれほどアピールする建物は、キャンパス内に他にはない。
名大初のノーベル賞を、建築という形で顕彰しようという意思の現れのようにも見えてくる。
建物を訪れた人の目を強烈にひくのが、こちらの壁面だ。
外部からもアクセスできる吹き抜けに面し、2階天井までのスペースいっぱいに描かれた化学式のパターン。
実は、野依特任教授がノーベル賞を受賞することとなった業績そのものを端的に表している。
学生時代に苦しめられたことをいったん忘れて、じっくりとパターンを眺めてほしい。
実は一種類のパターンが大きさを変えて繰り返し描かれていることが分かる。
六角形の亀甲模様が左右に2つ並んだものが、さらに上下にひとつずつつながっている。
六角形は、それぞれの頂点に炭素の原子が位置していることを表している。
上下の亀甲模様を見比べると、太線の位置が異なっていることも分かるだろう。
上下の亀甲模様はきれいに並んでいるわけではなく、太線の部分が手前に来るように、ねじれの構造を持っている。
この化学式で表されているものこそが、ノーベル化学賞につながった特徴的な性質を持つ物質、BINAP(バイナッ
プ)である。
自ら同様に「ねじれ」の形を持つ分子を選択的に合成できるという特性を持つ。身近なところでは、メントールの生産に用いられている。
BINAPは、反応の過程で金属を取り込む。
右側に伸びたふたつのP(C6H5)2の間には、用途に応じてルビジウムやパラジウムといった金属が、挟まれるように取り込まれる。
ここは亀甲模様よりも小さく見えるが、実際は同じくらいの大きさで広がっている。
実に複雑な構造をしていることに、ぜひ想像をめぐらせてほしい。
通用口の背の高い1枚ガラスにも、一列にBINAPのパターンが施されていた。
先ほどのものとはかなり趣が変わり、壁面の印象をピリッと引き締めているかのようだ。
このようにデザイン要素として活用されてこそ、この建築にBINAPをめぐる物語が通底し、息づいているような印象を受ける。
ある時はさり気なく、ある時は大胆に、ノーベル賞につながった知見が埋め込まれている名古屋大学。
理系地区の東端に位置するこの建物を、目にする機会のない学生や教職員もきっと多いことだろう。
よしんばうっかり迷い込んだとしても、その素性に気づくことも難しい。
だがそれゆえに、ノーベル賞をめぐる喧騒が、
静かに歴史として取り込まれていく、そんな過程が感じられる。
ぜひ、そっとのぞきに来てほしい。
壁面の化学式パターンの最初の印象は、正直なところあまり良くありませんでした。
しかし、記事を書くために専門外の有機化学の論文を調べ、文中に記したよう
な立体的な構造やBINAPの働きについて理解を進める中で、じわじわと親しみが湧いてくる過程を感じることができました。
しかし、設計者や一般の方はどのような印象を持たれるのでしょう?これは実に興味深いことです。
科学研究やその所産が市民にどのように受け止められるのか、なかなか我々には想像がつかない部分もあります。
多くの対話でもって、さまざまな感じ方に触れていくことが、科学を発信する側に求められる地道な努力なのです。(編集:飯野孝浩)